高橋洋子は女優である

 インターネットで検索すると歌手の高橋洋子(1966年8月28日生まれ)ばかりで、女優の高橋洋子(1953年5月11日生まれ)は全くヒットしない。gooの映画検索でかろうじて名前が挙がっているくらいだ。先日、手に入れた映画秘宝の「アイドル映画30年史」(2003)でも全く無視されていた。高橋洋子をアイドル女優だと思っていた私(1962年1月2日生まれ)にとっては噴飯ものである。世間の彼女への評価はそのようなものでしかなかったのか。彼女は一部の知る人ぞ知るようなカルト女優でも、単なる一発屋でもないはずである。しかし80年代後半以降は完全に銀幕から姿を消してしまった。目立った活動をしていない現在、忘れ去られているのは仕方がないことだが、忘れ去るには惜しい女優なのである。

 「旅の重さ」(1972)は家出した高校生が野宿しながら四国を遍路する青春ロードムービーだ。田圃の中のポンプ小屋で目覚め、行水する高橋洋子の肢体は自然体の少女そのもので、瑞々しい青春映画として観客をときめかせてくれたものだった。この映画は「青春の彷徨」をひと夏の少女の自分探しの旅として描くもので、テーマ的に今でも古びてはいない。十代の少年少女は中途半端にぐれたりせず、この映画の少女のようにきっちりと家出して人間性を磨くとよい。きちんと人の生活というものの実感が描かれている映画で、昨今の生活感が希薄なドラマに比べて密度が高い。この映画のオーディションで主役の座を争ったのが秋吉久美子(1954年7月29日生まれ)である。2位に甘んじた秋吉久美子もこの映画で薄幸の文学少女役を得て銀幕デビューを果たしている。ちなみに、この映画の主題歌「今日までそして明日から」 と音楽は吉田拓郎(1946年4月5日生まれ) だったりするのである。

 「サンダカン八番娼館 望郷」(1974)この映画では主人公の娼婦の過去を高橋洋子が、現在を田中絹代(1909年11月29日生まれ)が演じるというダブルキャスト。新人の彼女にはもの凄いプレッシャーの中での演技に挑むこととなる。それをはねのけた彼女の体当たりの演技により文句なしの傑作となり、高橋洋子の名前を大々的に世間に知らしめた歴史上の名作である。ジャングルに残る「からゆきさん」の墓の描写で終わるラストシーンは、我が国にも辛い時代の歴史があったことを歴史教科書よりもきちんと教えている。今の自分の立場しか考えないで、今の自分に有利にあればと過去を改竄してはいけない。お互いに過去を背負わずして真の理解には到達し合えないし、確かな未来は見えてこない。日本と亜細亜の公けの関係を物語る上では、とりあえず見ておいた方がよい重いテーマを背負った映画である。公けでは物語ることが必要不可欠なことでも私的には秘するべきこともある。それを弁えてこそのジャーナリズムであるべきだということも含めて、昨今のマスコミ諸氏やワイドショーファンにとっては必見の名画である。

 「蔵王絶唱」(1974)青春映画と言うより少女小説をそのまま映画化したような話だった。この映画だけが妙に明るく爽やかに青春の哀感を描いているのは東宝作品だからに違いない。お恥ずかしい話だが、私が映画館で実際に封切りを観たのはこの映画だけなのである。前半は新任の美人教師と実家は金持ちの不良学生との恋愛におけるすったもんだという、よくある設定。後半はクラスが思い出作り(映画のクライマックス)のために蔵王にハイキングに行って、自分の体重を支えきれなかったために山小屋にとどまった笠井うらら(1955年4月7日生まれ)を除いては全員が遭難死するという悲しい結末で盛り上がる。この悲劇の舞台となった蔵王に「八甲田山」(1977)と 「聖職の碑」(1978)の中央アルプス駒ケ岳を加えて日本遭難映画三名山と人は呼ぶのである。

 「宵待草」(1974)は高橋洋子が「下妻物語」(2004)の深田恭子(1982年11月2日生まれ)のような服を着て、電車に乗ったり浜辺でうろうろしていたことだけは覚えている。どうやら珍しく金持ちの令嬢役。テロリストによる令嬢誘拐もので大正デモクラシーとハリウッドニューシネマが融合したようなイメージのようだが、何分にも印象が希薄なためコメントは控えた方がよかろう。

 「鴎よ、きらめく海を見たか めぐり逢い」(1975)この作品はいかにもATGらしい暗い青春映画。70年代爆発の青春残酷物語は多々あるが、これもその一本である。不幸な出自から逃れるべく、田舎を捨てて都会を目指した二人の若者が破滅していく話。都会に憧れる女。夢を語るだけしかできない木訥な青年、オメダこと田中健(1951年3月6日生まれ)。ここで特筆すべきは全共闘の時代に乗り遅れ、自分の夢を語るしかできないブルーカラーの田中健の脆弱さだろう。高橋洋子は田舎育ちの娘が抱く強烈な都会への憧れと挫折をごくわかりやすく自然に演じ違和感がない。田舎の高校生たちに都会生活の虚しさ、怖さを教えてくれたのである。松田優作(1949年9月21日生まれ)の「ひとごろし」(1976)にも出演しているが、松田優作と丹波哲郎(1922年7月17日生まれ)の存在感の前には印象に残るべくもなく、高橋洋子が出ていたことすら忘れていた。

 「悪魔の手毬唄」(1977)では主演ではない。金田一耕助シリーズらしい「美しい死体」役。ヒロイン役は当時売り出し中だった仁科明子(1953年4月3日生まれ)に無惨に奪われている。「升で量って、漏斗で飲」まされる死体に扮し、滝壺で長時間、水に打たれるシーンは輝かしい彼女の芸歴の中でもかなりしんどい部類だったろう。これ以降、彼女がヒロインを演じる映画は全く見ていない。しかし、彼女ほどの女優に死体役をやらせるというのは・・・。

公開年

高橋洋子の出演した映画

同時期のライバルたち

1972

旅の重さ

夏の妹  (栗田ひろみ)

1973

北の家族(NHK朝の連続テレビ小説)

赤い鳥逃げた? (桃井かおり)

1974

宵待草サンダカン八番娼館 望郷

蔵王絶唱

宵待草

赤ちょうちん (秋吉久美子)

神田川  (関根恵子)

伊豆の踊子 (山口百恵)

1975

鴎よ、きらめく海を見たか めぐり逢い

青春の門 (大竹しのぶ)

1976

反逆の旅

ひとごろし

大地の子守唄  (原田美枝子)

犬神家の一族  (島田陽子)

1977

悪魔の手毬唄(ヒロインではない)

トラック野郎 男一匹桃次郎 (夏目雅子)

 「時間よ、とまれ」(1977)。こちらは土曜ワイド劇場の記念すべき第一作。都合3本作られた渥美清(1928年3月10日生まれ)の田舎刑事シリーズの第一作でもある。ここに溌剌とした女刑事として高橋洋子が登場する。この時の高橋洋子が私にとっては最高の高橋洋子である。この伸びやかなキャラクターは日本に存在した並み居る女刑事の中では最高の出来映えである。後年、2時間再編集版が放映されたり、矢沢栄吉(1949年9月14日生まれ)主演でリメイクされたりしたが、この土曜ワイドの第一回作品はそのまま高橋洋子の最後の輝きでもある。中国残留孤児を扱った重いテーマはミニ「砂の器」と言ってもよく、その優れたドラマ構成は早坂暁(1929年8月11日生まれ) の畢生の傑作と思われる。渥美清の芝居への情熱が結晶した寅さん以外のただ一つの彼の代表作と言っても過言ではない。時効寸前の犯人を追いつめる渥美清。彼とコンビを組んで颯爽と街を行くスリーピース姿の高橋洋子。彼女はクライマックスに銃を構えて渥美を救わんとする勇ましいところも見せる。「あいつがトラブル」(1989)の南野陽子(1967年6月23日生まれ)、 「年の差カップル刑事」(1998)の高橋由美子(1974年1月7日生まれ)の婦警姿や「逮捕しちゃうぞ」(2003)の 伊東美咲(1977年5月26日生まれ)たちは自分のキャラに依存した戯画っぽさを抜け出ることは出来なかったが、高橋洋子のそれは凛々しく自立しようとしている等身大の女性をきちんと演じていていてすがすがしい。DVD化した暁には必ず見て損はない。

 その後、彼女は同じ土曜ワイド劇場の天知茂(1931年3月3日生まれ)の「浴室の美女」(1978)に将来的には明智の妻となるべき女性の役で出演する。江戸川乱歩(1894年10月21日生まれ)の「魔術師」(1933)をテンポよくアレンジした佳作だった。五十嵐めぐみ(1954年9月18日生まれ)さえいなかったら……あのまま明智夫人としてレギュラー入りを果たしていたはずなのに。とはいえ、明智小五郎が文代と結婚するのは原作によると「吸血鬼」(1933)事件以降のことなのだが、天知明智のテレビシリーズでは第一作目の「氷柱の美女」(1977)が「吸血鬼」事件に相当する。時間軸からして原作が無視されてしまっていたのだから、仕方がないところではある。中村勘三郎主演の「名探偵雅楽三度登場!幽霊劇場殺人事件」(1978)にも薄幸な母役で出演。この後、彼女は病気を理由に「必殺からくり人 富岳百景殺し旅」(1978)を中途降板する等、生彩を欠いていく。そのままフェードアウトしていった印象すらある。1980年にはプレイボーイのグラビアに登場。「ボスポラスの海につれててって」という意味不明な惹句を覚えているが、全く無意味な活動に思えた。

 それにしても25歳になるかならぬかであたら女優生命を使い果たしてしまった感のある高橋洋子。彼女が銀幕やブラウン管から遠ざかってしまったのは何故なのだろうか。田中絹代といわば演技比べをしてしまった高橋洋子にとって限界が早くから見えていたのかもしれない。彼女は大映画女優田中絹代(1977年没 享年 67歳)に自分の未来を見てしまったのか。文学座(「旅の重さ」で共演した岸田今日子《1930年4月29日生まれ》、「ひとごろし」の松田優作も文学座)付属演劇研究所に入ったものの、同年には「旅の重さ」でデビューしてしまったのだから、研究所生活は長くなかったようだ。演劇学校に入学したとたんに飛び級で卒業(ブレイク)してしまったと言うことか。大竹しのぶ(1957年7月17日生まれ)のような一種の天才だったのかもしれない。下積みがなかったことから考えると逆に女優としての自分に執着がなかったのか、80年代には文筆業にシフトチェンジをしてしまった。大竹しのぶのようなアクの強さは希薄だった。流石に80年代にかけては迷走したものの、次第に女優業に見切りをつけてしまったのだろう。現在に至っても愛くるしい魔性をまき散らす永遠のライバル、秋吉久美子が元気なことを考えると残念だが女優は引き際も肝心である。森下愛子(1958年4月8日生まれ)は今や怪女優然として樹木希林(1943年1月15日生まれ)を目指しているのだろうか。森下愛子の場合は上下の瞼閉じてじっと考えりゃ「処刑遊戯」(1979)のリリカルな彼女の面影が瞼の内に浮かんでくる…。

 脱ぐべきところはきっちり脱いでくれる潔癖さのある演技巧者な女優。高橋洋子や田中裕子(1955年4月29日生まれ)みたいな女優は現在は絶滅寸前である。そもそも容姿端麗な女流芸能人は様々なジャンルに棲み分けしている。入り口であるチャイドル(アイドル)部門。歌手部門、女優部門、水着(グラビア)部門(まんま奈落あり)、バラエティ部門。これらの部門を回遊するタレント業。この中で女優というステイタスの占める位置は高いようで、水着アイドルが女優志願であることはあっても、その逆はない。旬の勝負である水着部門は同時に長続きはしないものだ。美少女タレントが歌を歌い、服を脱いで水着姿でグラビアを飾り、「これからは女優を目指して勉強します。」なんてコメントとともに水着まで脱いでしまって、消えていくのが世の常だった。俳優業はそもそも易しいものではないのである。たとえば葉月里緒菜(1975年7月11日生まれ)はその一番の勝負時の「写楽」(1995)「パラサイトイブ」(1997)にきちんと脱げなかったものだから、その後は転落の一途をたどってしまった。裸は人間のあるがままの姿なのだから、その姿を演じられない女優は俳優の名にすら値しないものだ。

 宮沢りえ(1973年4月6日生まれ)や菅野美穂(1977年8月22生まれ)が、その上り坂の段階(1991年「サンタフェ」,1997年「ヌーディティ」)でぽんと脱いだのにはそれぞれ事情があったのだろうが、裸に免疫をつける予防接種みたいなものと考えれば当人やスタッフはしたたかだというべきか。その人に才能がなくては裸になっても、それはビールと同じ。すぐに気は抜けて酸っぱくなってしまう。(古いビールは抜きたてでも美味しくない。やはり、鮮度が肝心。)そもそも俳優としての演技力は当然加齢とともに巧みになっていく。それをワインにたとえるなら宮沢りえはその代表者である。貴ノ花(1972年8月12日生まれ)と一緒にならなかったことは日本の芸能界のためにはよかったのである。 ジャン=アレジ(1964年6月11日生まれ)夫人となったゴクミ(1974年3月26日生まれ)がすっかり日本離れしてしまったのと好対照で、彼女には邦画界の明日をあの細腕でしっかりと担ってほしい。宮沢りえや菅野美穂と違って、かつての高橋洋子は美少女モデルの出身ではない。わりあい普通の顔立ちをしている。デビューが19歳だから、セーラー服姿で美少女ぶりを売るというようなこともなかった。「女盛りは19」と歌ったのは森高千里(1969年4月11日生まれ)だったが、アイドル女優としては売り出せない年齢だったので、いきなり本格女優として前のめりに突っ走っていってしまったのか。それは知るよしもない。しかし私の知る銀幕の高橋洋子は永遠である。

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