日本の近代に起こった精神的な革命は、明治維新に始まる西洋の個人主義の流入によって無理矢理に開始されたものだったようだ。それまで続いた封建主義の世の中では自我や自意識を振り回すことは慎むべき事で、はしたないことの典型だったから、まともに文学では扱われなかった。なにしろ滅私奉公の時代なので是非もない。己自身の誠を貫くことは、特に愛情の場合は「けそふ」というニュアンスと言い、「秘め事」と言い、どうも大っぴらではないものだった。今でも「私する」といえば、恣意のままにするという意味で、よくないことのように扱われているではないか。
明治の庶民は西洋の物質文明や最新風俗に目を奪われた訳であり、西洋の精神文化に触れた知識人だけが日本人の精神と西洋人の精神のギャップに驚いたわけだ。ミーハーが多いのはいつの時代も同じだし、庶民とは現在をあるがままに生きている人たちのことでしかない。江戸幕府が日本政府に変わったからとて、太陽が西から昇るわけでもない。大衆の常識なんてものはそうそう揺らぐものではない。当時の日本は封建主義が形式の上だけ崩壊しただけであって、人の中身や発想は前近代的なままだった。己の自我、自意識をいち早く意識した自称早熟な近代知識人たちにとって、その扱いをどうするかということは彼らの作品テーマとなりやすかったに違いない。
西洋の個人主義は市民革命を経て確立していったものだろうから、そもそもは大衆が志望したのものだったのかもしれないが、明治維新は大衆が志望したものではない。個人主義なんて思想を与えられた当時の知識人は大いにとまどったことだろう。戦後の米式民主主義は問答無用で与えられた精神的革命だったが、それを体験させられた昭和の大衆よりももっと衝撃的で厄介事だったのかも知れない。戦後のそれはアメリカの指導でなされた一種の洗脳作業だった思えるのだが、明治の頃の精神的革命は少なくとも知識人たちにとっては自発的な自己改革であったと思うのである。夏目漱石が注目していたエゴイズムの問題は常に悲劇の火種となっていた。漱石の頃にあって個人主義を主張することは結果的に周囲との乖離を呼び、主人公に破滅をもたらす。
中島敦が山月記で描いたのは、近代人の心の中に巣くっている自我という「猛獣」である。自分の中に本当の自分がいて、自分は自分自身の中で常に本当の自分と葛藤している。明治の近代知識人が抱いた自我、自意識というものの正体を、昭和人である中島敦はそんな風にとらえたようだ。その本当の自分が強烈すぎて、「産をやぶり、心を狂わせて」しまったなら、人間はどうなってしまうのかを、中国古典に仮託して描いたのである。
この「猛獣」は「理想の自我」であり、強い自我はエゴとなる。現実の自分が制御できなくなってしまった「理想の自我」。李徴の場合、それは詩人足るべき自分といったところか。そもそも「理想」と「現実」は折り合いをつけて生きていかなくてはならない。騎手と競走馬のようなものだ。このテーマは随分と今日的なものがあり、現在の我々の身の上にも普遍にふりかかっている問題だといってよいだろう。これこそが山月記が現在に通じている価値であると思われる。
山月記は中国の伝奇物の形式をとっている分、その実態をファンタジーの鎧で覆い隠しているに過ぎない。「自分探し」「本当の自分を探す」とか、「俺は○○○になる」とか言って、エリートサラリーマンが大企業を脱サラしたが、行き詰まってしまい中小企業に再就職して……といった話に容易に置き換えることができる。挫折を経験し、家に引きこもり、家族に辛く当たるようになり、終いには発狂して、人を殺して人肉を食らう殺人鬼と化した男の悲劇……という陰惨きわまりない話になってしまう。悲劇だなんて同情する前に誰もが死刑を望むことだろう。「あんなに頭のいい人がねぇ。」「子供の頃は優等生だったのに。」とワイドショーが集めるいつもの証言。同じケースは毎日どこかで起こっていそうだ。しかし、この物語は人が虎になるという奇想で陰惨な実態をうまくかわして、寓話として成立させることに成功している。自我を飼い太らせてはいけない。エゴに飲み込まれてしまってはいけないと我々に警鐘を鳴らし続けている。
西洋の個人主義というものは平成の日本にでさえ正しく浸透しているとは思えない。個人の自我や自由を尊重しあうのが個人主義の筈だが、日本の個人主義は自分勝手な我が儘を冗長させるための好き勝手な言い訳でしかないのではないか。権利と義務は同時に発生するもののはずだが、権利だけを振りかざして恥じることがない。自分だけの自由を大らかに主張し続けて省みることをしない。漱石が憂え、中島敦が懼れたエゴを現代人はますます太らせているだけではないのか。ネットの陰に隠れて「尊大なる自尊心」を垂れ流している輩を見かけるとつくづくと……やや。私自身もマウスを持つ手に毛が生じてきているらしい。
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