悩みくらいあるさ

 私が一番好きな特撮番組は「ウルトラマン」である。子供の時に見た「初代」ウルトラマンだ。反抗期には遠ざかっていたが、それ以外は素直にウルトラマンが好きだと言える。ウルトラマンは「ウルトラマン」の中では神様みたいな存在である。神というよりも日本人的には仏様と言うべきか。仏像のように無表情で、初期のAタイプと呼ばれる顔ではちょっとニヒルな笑みを浮かべているように感じるが、澄まし顔のBタイプや最終的な唇の広いCタイプも悪くない。アトラク用のCタイプは口が大きすぎたりするが、まぁ外見はよしとしよう。時空を超えて「ティガ」と競演したり、なんといっても「初代」の印象は強烈である。平成ウルトラマンたちの光線技を見てもスペシウム光線と言ってしまったり、子供と平成仮面ライダーの変身ポーズを真似しながら「変身」とつぶやき「とおーっ」と叫んだりする困った親父は私だけではあるまい。

 ウルトラマンそのものよりも「ウルトラマン」という作品が好きだ。ウルトラマンよりもそれを支えていた(それに支えられていた)科学特捜隊が好きなのである。私に人生を教えてくれたのは科学特捜隊かもしれないのである。子供がはじめて一生懸命見ていた大人の集団。私が中でも感動的に思い出すのはイデとアラシの二人の存在だ。優等生のデキスギ君であるハヤタにはウルトラマン同様感情移入はできなかったが、両極端なポジションを与えられたイデとアラシは実に生き生きとしているように見えた。二人をドラえもん的に言えばスネオとジャイアンと言ってもいい。笑いを一手に引き受けていた剽軽者であるイデ。体育会系の蛮勇精神のアラシ。ハヤタには憧れなかったがこの二人には憧れたものである。子供心にハヤタになるのは無理でも、この二人のどちらかにならなれるんじゃないかと思わせてくれたキャラクターだったのだろう。残念ながら、私は理科系にも体育会系にも進まなかったので、結局どちらにもなれなかったが。

 第三十六話はアラシ主役編として特に印象に残っている。ここでのレギュラー陣の絡みは実にいい。サンリオピューロランドみたいな施設を襲う変身怪獣ザラガス。攻撃を受けるたびに進化して強く凶暴になると言う掟破りの属性を持っている。イデが四年がかりで発明した怪獣の脳神経を一発で破壊する新兵器QXガン。被害を最小限に抑えるために、ザラガスを一撃で倒せない限り、絶対に攻撃してはいけないと言う厳命。いくら実験をしたって、新怪獣に新兵器の効き目なんてわかるわけはないんだから、そもそも難しいパラドックスである。逃げ遅れた子供を庇ってハヤタも負傷。子供とハヤタに危機が迫る中、アラシはQXガンを構えて逡巡する。「脳神経細胞を一発で破壊する」というイデの声。「絶対に攻撃してはならない」というムラマツの声。アラシはQXガンの引き金を引いてしまう。ザラガスの足止めには成功し、子供とハヤタを救ったアラシ。しかしザラガスは更に凶暴に変身し街を襲い続ける。ムラマツが「命令違反は見逃すことができない。」とアラシの流星バッヂを剥ぎ取る。ムラマツを非難するイデとフジ、しかし辛い時期だからこそ命令違反は見逃せないと「泣いて馬謖を斬る」ムラマツ。(ハヤタとアラシを失えば戦力はゼロに等しいのに、ここでのムラマツは堅すぎ。)

 アラシは科特隊の一員であることに自信と誇りを持っている。怪獣を射撃することは大好きだ。命令違反を侵せば、二度と科特隊員として活躍できなくなるかもしれない。だから、ためらった。しかし、目の前の子供たちが無惨に殺されそうになった時、彼は科特隊員としての大義よりも人間としての正義に従った。子供の命を救うなどということは、子供番組の中では絶対の正義に決まっている。子供番組の中でなくて、これが現実であっても論を待たない。正義という思想は諸刃の剣ではある。戦争に正義はないとか、世の中に正義なんてないとかいう人もいる。私も残念ながらそう思う。「この世の正義はあてにはならぬ」のである。言い換えれば「正義なんて風の吹きようでどうにでも変わってしまう」この世に我々は生きているのだ。科特隊パリ本部の指令というのはロケット事故の犠牲者である人間を怪獣として処刑してしまえという密令を下したりもするわけで、世界平和の大義なんてのはあてにはならない。

 とはいえ「子供を救うなんて当たり前の行為だし、ヒーローだったら誰でもやってることではないか」とも考えられる。溺れる子供を救おうとして思わず川に飛び込んで命を失う悲劇は毎年なくならない。犬や猫の命を救うレスキュー隊の話を美談として扱う番組ですら見たこともある。アラシがリアルだったのは職務を逸脱しなくては達成できない正義に対してジレンマに陥ったが、やむにやまれぬ気持ち(情)からそれを実行したということである。しかし、子供の命を救うという英雄的行為も、組織の論理の前には通用せず、科特隊員としての資格を剥奪されてしまった。非人情な企業論理のひな形を私はこのエピソードに見たのかもしれない。

 アラシが科特隊生命を賭けてささやかに守った子供たち。基地での謹慎を命じられたはずのアラシが基地に戻らずに子供たちとハヤタを真っ先に見舞ったシーンがよい。ザラガスの怪光に目をやられてた子供たちが累々とベッドに横たわっている。「私の目、きっと見えるようになるわよね。」と呼びかける少女。「もちろんだとも。」と励ますアラシの表情からは、この子の目は二度と見えるようにはならないのにとしか読みとれない。「もう怪獣は科特隊がやっつけちゃったんでしょう。」バッヂの跡に手をやるアラシ。ここでの子供たちはウルトラマンが怪獣を倒してくれるなどと神頼み的なことは考えていない。科特隊がやっつけてくれると信じているのである。思い詰めたように虚空をにらみ、病室を足早に去る。この後の展開は言わずもがなだが、この物語は科特隊の誓い第四条を涙ながらに唱えるアラシで終わる。「科学特捜隊員は命令を守り、命令に従って行動し、自分に与えられた責任を果たします。科学特捜隊員は……。」

 今となっては「命令を守り、命令に従って」という点が軍人的で窮屈な印象を覚えるが、果たさなければならない任務を考えればそれも当然だ。警察や自衛隊を上回る戦力を隊員個人与えられている科特隊だからこそ服務規程は厳しかろう。しかし科特隊は軍隊ではない。この第四条は科特隊の隊則ではなくて誓いだそうだから、これは彼らだけの文字通り誓いなのだろう。どの職場であっても、そこの決まりは守らなくてはなるまい。アラシが二重三重の命令違反を重ねたあげくに、事件が解決したからといってあっさりと復職してしまったのは、子供番組とはいえ納得のいかない結末だった。

 しかし、ムラマツには彼の一存で隊員の資格を剥奪したり、授与したりする権限が認められているのではないか。科特隊というのは非常に独立性の強い組織だったのかもしれない。ホシノという少年隊員の存在もムラマツの独自の配慮によるものだった可能性もある。いつも地球防衛軍に存在自体を脅かされていたMATとは偉い違いである。となると科特隊副隊長の権限を持つハヤタが個人的な遺失物を届けてくれただけの少年に科特隊の証である流星バッヂをあっさりとプレゼントしてしまったのも頷けるというものである。たった五人で日本支部に勤務し、極東だけでなく中近東まで出張してしまうほど世界的にもその実力を認められている彼らである。かなりの職権が認められているのだろう。ムラマツがジェットビートルを使って傘を届けさせたり、独自の判断でアラシの復職を認めた件も不問にしましょう。

 さて、そもそもこのエピソードは少年に人生を教えるような話だったのだろうか。「自分のミスは自分で始末をつける!」という強い責任感か。否、自分の招いたミスを取り戻そうとアラシは最前線で戦ったり、イデは危険な消火活動を続けたりするという、いわばダメ人間(ウルトラ警備隊のアマギ隊員は爆発が怖いというトラウマをカミングアウトしたことがあったが、あれでは地球防衛軍のエリートは務まらないはずなんだが……)であって責任の取り方自体を間違っているとさえ言える。企業論理の理不尽さや、それを突き抜けて大団円に持っていける「ウルトラマン」特有の前向きな人情を学んだのか。何かというと参謀本部にお伺いを立てなければならない大企業的なウルトラ警備隊よりも、町工場的な科特隊気質がやはり居心地のよいものだという小市民的なスケール感(身の程というもの)を学んだのか。(事実、生まれ変わって入隊が許されたら、ウルトラ警備隊なんかよりも科特隊に入ってみたい。)第三十六話は「ウルトラマン」の中でもテーマ的に傑作といわれるような作品ではないと思われる。それなのに一言では片付ける言葉が見つからない。ああでもない、こうでもないと何十年も考える楽しみを与えてくれる。「考える」という人間ならでは楽しみを与えてくれたのか。しかし、その「空想力」でさえ、この話だけのものではない。どうにも結論を見い出せないので「大きな正義はないかもしれないが、小さな正義は必ずある。」を学んだこととして、本稿の結びとする。

 本稿のタイトルである「悩みくらいあるさ」は、傑作と誰もが認めがちな第三十七話で、落ち込んでいるイデをいぶかる隊員たちに向けてムラマツがかけた言葉である。「彼だって人の子だ。悩みくらいあるさ。」その悩みとは全てのヒーロー番組の根幹を揺るがすようなウルトラに重大な悩みだったのだが、この作品については触れるのは別な機会に譲るとする。何気ない言葉なのだが、「誰にだって悩みくらいあるさ」と思いながら、他人を眺めると優しい気持ちになれる気がするのである。

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