キャメロンの腕力

 1998年、ただ一つ見た映画が「タイタニック」だった。超大作のふれこみで、超売れた映画だったので、話の種にと思って映画館へ足を運んだ。これが超長い映画で前半のなだらかな展開に大いに退屈した。古典的なラブストーリーと言うことだが、古典的で新味がない前半だった。

 しかし、有名な舳先でのケイトが両手を広げて、デカプリオがそれを支えるシーンで、一気にカメラがグンと引いてタイタニック号の全景が見えるショットには感動した。こういうカメラアングルが自在な映像というと、アニメ「さすがの猿飛」を思い出すのである。カメラが宙を飛び、跳ねる猿飛肉丸の周りをぐるぐる回りながら追いかけるというくらくらするようなワンカットの長回し。アニメならではの映像だったが、今はCGでそれも可能になった。ただし、「タイタニック」の場合はCGらしいCGは逆効果なのであって、あくまでも夜霧に煙る20世紀初頭の雰囲気を出すことが主眼である。その意味では前半のタイタニック号の描写としてのCGは素晴らしいものだった。

 前作の「ターミネーター2」の頃とは偉い違いである。あちらはこれがCGですという映像だったが、今回はキャメロン監督が私財をなげうって製作したという半分だけの実物大セットとCGの切れ目は全くわからない。どんな映画だってビデオで見るよりも劇場で見た方がよいのに決まっている。元来、私は映画館には感動するために行くのであって、それがどんなに大したことがない映画であっても、払った料金分は感動しようと目論んでいる普通の映画ファンである。特撮、特にCGはビデオとは相性がよすぎて、クリアに見えすぎる。昨今のCG特撮大作ほど劇場で鑑賞するべきだと思う。「タイタニック」のCGの限界を見たのはラスト近くのタイタニックのスクリューが海上に顔を出すというシーン。あれは映画館でも浮いていたCGだった。それ以外のCGカットは基本的に動きのある場面を瞬間的に見せるカットが多かったので不自然さはなかったが、ああまでたっぷりと怪獣出現みたいにスクリューを見せてはCGがはっきりしすぎて興ざめ。観客たちの殺戮ショーで大いに盛り上がっていたところに水を差したと言っていいかも知れないので、悔やまれる。その後のCGの進歩はとどまることを知らない。今の技術ならあのシーンももっと自然にレタッチできるだろう。

 隣の座席で、女子高生たちが大泣きだったデカプリオの死。凍りながらしゃべるというのも盛り上げすぎだが、時々効果的に白い息が合成されていたのは見事な気配りだった。彼が海に沈んでいくシーン。カリフォルニアのプールじゃないんだから、あんなに透明感があるわけない。夜の海は暗いのである。死屍累々たる中をただ一艘救出に向かうボート、それはそれで胸を打つシーンなのだが、明るすぎる照明。ビデオで見た人はつくづくその明るさに興ざめしなかったろうか。まるで舞台のような演出だった。全体を通しても殺戮パニック以外は平板な展開であって、ラストシーンの幽霊の大夜会シーンはある意味最高の恐怖シーンだが、あのメンバーの中に艦長たちが混じっていたのは不合理ではある。

 「タイタニック」の最大の問題点は主役の二人がいつ恋に落ちたのかである。「ロミオとジュリエット」も相当素早い命がけの恋だが、デカプリオとケイトの恋も実に素早い。世間知らずの没落貴族のお嬢様が縁談から逃げたがっていた事情はよかろう。悪っぽいデカプリオに引かれるというのもよかろう。お嬢様が不良に憧れるのは少女漫画の王道であるから、納得できる。親への反発と賤の男へのからかい半分にヌードを描かせたり、アイリッシュパーティに潜り込んでビールを飲んだりするのもよかろう。彼女の行動パターンは実にわかりやすい。また、彼女を足がかりに一等船室の生活にふれてみたかったデカプリオの気持ちもわかる。第一、貧乏な彼はタイタニックの切符を賭博で手に入れたのである。彼がいかさまを使ったかどうかまではわからなかったが、いかさまを使っても全然不自然でないキャラクターだったろう。要するにデカプリオは海千山千の男なのである。酔っぱらいケイトをうまく言いくるめて自殺を思いとどまらせる場面にも彼の口説き上手なしたたかぶりが現れていた。ではケイトとデカプリオはどの瞬間に相思相愛になったのだろう。これが不思議なのである。デカプリオがケイトに惚れるはずがない。これが私の見解だ。デカプリオのキャラクターはケイトを命がけで救うようなキャラクターじゃないはずである。宝石だけはいただいて避難する客に混じって逃げてしまったても不思議でないタイプだ。

 ではケイトがデカプリオに惚れるのは少女漫画的だから良いのかというと、これも問題がある。これはキャメロンの腕力によるものだ。心理学的に正解な恋の錯覚にすぎない。恋愛を打ち明けるときには次の二つの場合どの場所の方がよいだろうか。安全な公園と危険な吊り橋の上。答えは、誰でもわかるが後者である。ドキドキワクワクの感情の揺れが恋愛の命だ。恋愛以外の要素でドキドキワクワク感が強いと、相手はそれを恋ゆえの胸のときめきと勘違いしやすいのである。大冒険の後に男女が結ばれるというのは冒険映画の王道である。007はいつもそのパターンである。大冒険は急速に連帯感を強め、それを恋愛と錯覚しやすい。ひと夏の恋が秋には冷める。「スピード」のキアヌたちもそうだったが、「2」ではしっかりと醒めていたではないか。ケイトは悲劇のヒロインという自分の立場と酒に元々酔っており、タイタニック沈没というパニックの中で、ただ一人の味方の青年を生涯の恋愛の対象と錯覚したに過ぎない。本来なら道端であっても洟も引っかけないチンピラをである。ケイトは錯覚が生涯とけなかったが、デカプリオなら手錠が切れた瞬間にとけたはずである。全ての恋愛はつまりは錯覚だというつもりはない。しかし、自動車の中での一夜の契りなんてものは錯覚にしか思えない。タイタニック号のパニックを無事脱出した二人というのであれば恋に落ちても不思議はないのだが、順序が逆なのだ。冒険ゆえの恋と恋故のゆえの冒険とは随分違うもののはずである。(「M.I.2」も同じパターンなので実は納得がいかない。)

 男女が豪華客船で恋に落ちるという話はたくさんあると思うが、「めぐり逢い」などでは実に二人の恋愛が形作られていくプロセスを丁寧に描いていた。あの恋愛に対する丁寧さが、歴史上のゼロアワーに向かって驀進する「タイタニック」には完全に欠けていた。美男美女が結ばれぬ恋に身を焦がし……という宣伝文句で観客はデカプリオとケイトが結ばれることはわかっているし、また結ばれることには興味が無くて、興味があるのは沈没パニックの方なので、実際は芯となるはずの二人の恋愛劇がきちんと描かれていないことに気がつかない。というか関心を持っていない。キャメロンの魔術と言うより腕力だろう。

 パニックシーンで不満なのはタイタニック号の船外にしろ船内にしろ異常に明るいことである。沈み欠けた船の中がどうしてあんなに明るいのか不思議である。一番解せないのは水の冷たさが描かれていないことだ。氷塊が浮かんでいるような海なのである。水は身を切るように冷たいはずだ。いくらケイトの皮下脂肪が厚くてもあの水の中を歩いて、しかも暗闇で船室につながれたデカプリオを探すことは不可能である。いくら夢中だからといっても、夢から覚める冷たさのはずである。足は刺すような痛みにしびれて一分と浸かってはいられない。まして貴族のお嬢様だった彼女が体験したことがない冷たさのはずだ。ケイトが水の流れる船内の廊下を歩き始めた時点で私はそれは無理だと呆れかえってしまった。夏にキャンプに行ったときに雪解け水の流れる沢を歩こうとしたことがあるが、足が痛くてとても浸かっていられなかった。たかが真夏の水遊び程度でも冷たい水は恐ろしい。また、一切の光のささない洞窟に入ったこともあるが、真の闇はこれまた恐ろしい。ケイトは真の闇の中、氷塊の浮かぶ水がどんどん浸水している船室の階下に入っていったのである。あれは燃えさかる炎そのものに飛び込んでいくような蛮勇である。いや、蛮勇をもってしても……それは無理である。百年の恋をもってしても無理のはずだ。しかし、それを探しに行くのが映画という大嘘なのだと言われればそれまでだが、それは身長五十メートルの放射能火炎を吐く巨大生物の存在を信じろと言うことと根本的に同じことではないか。それともキャメロンも観客も斧を持ってデカプリオの手錠を断ち切るケイトを「ターミネーター2」の女戦士サラや「エイリアン2」のリプリーと混同していたのか。パニックになった女性はものすごく強いのだという確信が擦り込まれていたのかも知れない。

 さて、「タイタニック」の狂乱の熱が冷めて幾星霜。今、再びあんな長い映画を見ようという人がいるのか。ビデオの2巻目からならまた見てもいいというのが正直な感想である。キャメロンが無名時代にミニチュア製作を担当した(?)という「宇宙の七人」の音楽を担当したのはホーナーだった。既にその頃からホーナーは「ホーナー節」を炸裂していたが、「タイタニック」のパニックシーンの音楽を聴くと「スタートレック2」の戦闘シーンを思い出す。ほとんど流用曲と言ってよく、作者が同じでなかったら、絶対に訴えられている。しかし「タイタニック」のサントラは名盤である。シセルとセリーヌ・ディオンの歌声は今でも心に響く。

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